オノデライダーの来歴

2019年3月11日、19:00~ コミュニティFMミヤラジにて、ブリッツェンのオフィシャルデザイナーの久保氏が担当するスポーツ応援番組で、宇都宮ブリッツェンのオノデライダーがゲスト出演した。

番組自体はしっていたけど、馴染みない時間帯だったので、この番組を聞いたのは、今回が初めて。

オノデライダーと自転車との関わり、那須ブラーゼン加入からブリッツェン移籍し、オノデライダーポーズをはじめるところまでが語られた。

公式には鹿沼市出身となっているが、生まれは横浜である。

横浜に住んでいたときから自転車は身近なものであった。小学校6年の夏休みに栃木県鹿沼市に引っ越してきてからは、交通の不便さで生活環境が激変した。
(小学校の卒業アルバムは、鹿沼の小学校のものと横浜の小学校が用意してくれたものと2冊持っているとのこと)
中学校時代の部活で知り合ったひとと、峠(いろは坂)などを攻めて、高校は定時制でもいいかなと思っていたが、作新学院高等学校入学して、自転車競技部に入った。
自転車競技部では、宇都宮競輪場を使用してのトラック競技(いわゆる短距離走)が主体だったが、スプリント力が最下位クラスで、成績は低迷していたが、一度ロードレースの大会に出たところ、好成績になり、自分はロードレースのほうが向いているのではと思った。

高校二年の時、練習中の落車で骨折。入院のベットで進路を考えたとき、パイロットの道を思い立った。
高校の部活では、競輪場を使ってのトラックレース主体で大会も同様だったため、ロードレースの大会に出るには、自主退部して、ロードレースの大会に出るしかなかった。 自分で実業団登録して、アマチュアレースの一番下のカテゴリーで走るようになった。
同じく自転車をしている弟(小野寺慶)つながりで、ブリッツェンの廣瀬GMと面識あったので、夏に一人だけのトライアウトを受けたて、ブラウ・ブリッツェンに加入。
※ブラウ・ブリッツェンのトライアウトは春に行われる。

ブラウ・ブリッツェンのメンバーとしてレースに出場すると同時に、進路目標をパイロットとし、最短でパイロットとなれる航空自衛隊の大学校入校を目指し、試験対策も始めた。

そのころ、那須ブラーゼンの清水監督から、来期ウチで走らないかとオファーをもらったが、パイロットの道も諦めきれずに、一次試験の合否が出るまで返事を保留することを了解してもらった。
※本来、レースチーム選手獲得交渉は、夏頃に行われるので、夏の終わりで態度保留は珍しく、オノデライダーの返答次第では、ブラーゼンとしても別な選手を見つけなければならない状態だった。

一次試験は不合格だったので、那須ブラーゼン入が確定した。
加入してもすぐにはレースには出ず、さらに那須ブラーゼン時代はMAX体重が75kgと重い方なので、特に結果も出せずにいたなか、宇都宮ブリッツェンの清水監督より、ブリッツェン移籍のオファーがきた。

移籍するか、自転車競技から降りるか悩んだが、移籍を選択して、ブリッツェンのジャージを着た。

ブリッツェンのジャージを着て出たレースで優勝し、U23でピュアホワイトジャージ獲得した喜びから、ポーズをとったのが、オノデライダーポーズのきっかけ。
(オノデライダーポーズという名称自体は、中学の時自宅物置の上でポーズをとったら、同級生に言われたのが最初という)

ゴールスプリントで、必死の表情の選手が多い中で、さっそうとポーズを決めて1位でゴールを通過するオノデライダーのシュールさ、必死になるほど、表情が笑顔になるのも、オノデライダーの特徴。

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